三菱美唄炭鉱跡を歩く

 大型連休中の雨の日、三菱美唄炭鉱跡のメモリアル森林公園を歩いた。
 大正から昭和40年代まで、美唄は炭鉱で栄えた。出炭量は昭和初期には年間100万トンを超え、三菱鉱業の全炭鉱で1位となる大炭鉱だったという。数万人が住んだという山間の地が今はまったくの廃墟と化していた。朱色に塗られた竪坑巻き上げ櫓が2基、さらに原炭ポケットという巨大な建物も残っていた。
 私の祖父が大正時代、ここから美唄駅まで石炭や人を運んだ美唄鉄道の機関庫に就職した。そう思うと、人ごとではない記憶として、公園にある当時の写真から、心の風景が浮かび上がってくる。
 今は、美唄と芦別・富良野を結ぶ道道を時折、車が通りすぎるだけ。人は変わり、マチも変わる。ただ、美唄出身で世界的に活躍する彫刻家、安田侃のたっての希望で、「妙夢」など三つの作品が置かれ、炭鉱施設の跡となぜかマッチしている。ここで働き、住んだ人々の息吹を伝えているように感じられた。

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