池見さんがPCA国際会議で基調講演

 関西大大学院教授の池見陽さんが、7月6日、デンマークのコペンハーゲンで開かれた第15回パーソンセンタードおよび体験過程療法とカウンセリング国際会議で基調講演しました。
 講演は、池見さんが先に人間性心理学研究第39巻第2号で発表した「体験過程モデル」を基にしています。これは、ジェンドリンの開発したフォーカシングの背景にある考え方、理論モデルとも言えます。骨子は次の5つです。
 ①体験過程は前概念的である。フォーカシングは、そもそも言葉になっていない体験を丁寧に言葉にしていくことです。無意識を言葉にするのではありません。体験過程モデルは、あるフォーカシングセッションから言い表される論考という形をとっています。このセッションで、フォーカサーが進まなくなり、休憩をとった場面は、古典的精神分析家なら「抵抗」といい、「無意識が抵抗している」とか、防衛機制ともいうでしょう。フロイトは、現象の影に本質が隠れている、といいます。本質をあばく、という考えは今でも医学で強く、症状の背景に本質があると考えます。カール・ロジャーズも無意識論を持ちます。「無意識に否認されている」といいます。これに対し、今回のセッションで、フォーカサーが「それが邪魔している」といったのは、それを識別しています。防衛機制ではありません。

 ②体験課程は何かを指し示している。おなかがすいている人には、何を食べたいかを聞き、すいた原因を聞きません。生きているものは進んでいます。このセッションのフォーカサーと母親との関係で、今のかかわりが本来的でないというのは、もっと違うかかわり方がある、と知っているのです。どういうかかわり方を暗示しているのか。多くのクライエントは、自分の体験について原因を求めようとします。原因は無意識にあると思っている人はたくさんいます。それを(カッコ)にくくって、フェルトセンスを見ていくのです。

 ③追体験

 a)他者の体験の追体験 ロジャーズが「理解の試み」(テスティング・アンダースタンディング=TU)というのは、クライエントが言っていない気持ちをいうことです。セラピストとクライエントは相互主観的な交差をしています。

 b)自分の体験の追体験 池見さんは、体験が「間主観的」だと思っています。実は、フォーカシングというのは、追体験なのです。だれかとフォーカシングするとき、フォーカサーのフェルトセンスに導かれながら共同追体験をします。
 ④言うことは新しい体験・表現・理解である フェルトセンス→ハンドル→アスキング→フェルトシフト→フェルトセンスの循環は、デュルタイの体験→表現→理解のモデルに由来します。もっと精密になった表現が出てくるのです。表現することは感じているものを変えます。言葉の運んでくる意味・ニュアンスがあるのです。

 ⑤過去は、推進された『だった(was)』によって上書きされていく シフトが起きるとき、「だった」が変わっていきます。「自己」という実体をつくると、ジェンドリンの言う「ユニットモデル」になり、変わっていきません。ロジャーズは「自己」理論を捨てませんでしたが、ジェンドリンは「自己」と言いません。