サンドラ・パール(1978-2016)著「フェルトセンス からだを使って書くこと」(2004年)を全訳した。フェルトセンスを使って、文章を書く方法を教育現場で使えるよう具体的に示し、理論的な説明もしっかりしているところに引かれた。パールには翻訳と公表の許諾を得ていた。日本の作文教育でも広まってほしい。

「フェルトセンス 体を使って書くこと」(サンドラ・パール、2004年)

サンドラ・パール(Sondra Perl)

 この本は、上村が2004年5月のフォーカシング国際会議(コスタリカ)で入手し、英文で62ページある全体を訳した。日本語でA4版51ページになった。
 サンドラがジェンドリンのフォーカシングについて知ったのは1970年代の終わり。「フォーカシング」(1981年)の原著(1978年)が出されたころにさかのぼる。サンドラはニューヨーク市立大のレーマンカレッジでの「ニューヨーク市ライティング・プロジェクト」を通じて、フォーカシングを作文のガイドラインにするステップを見つけることができた。ジェンドリンの25年間にわたる協力を得て、このCDのついた本にまとめた。
 サンドラは数百人のライター、学生、教師にフェルトセンスを紹介し、教師たちは中学、高校、短大、大学で学生を導きながらこのアプローチを紹介してきた。それは、「作文のためのガイドライン」と呼ぶプロセスである。ガイドラインは、「保護された場所」から始め、興味のある話題や問題の調査方法を突き止めるのに役立ったり、かれら自身のユニークな立場に近づくのに役立ったりしてきた。最初の空白のページに直面している、おそろしい瞬間から始め、話題を選択し、発展させることへ導き、フェルトセンスの形成を待って、それの示唆するものがわかるところへとガイドしてくれる。イメージやアイデアなどをメモし、最終的に草稿や視点を見つけるところへ導いてくれる。
 多くのポストモダン、ポスト構造主義者に反して、サンドラは、言葉は私たちを閉じ込める監獄ではなく、自由に遊べる開かれた場所であることを提起する。私たちは言葉や文化によってつくられるだけでなく、新しい言葉や文化の創造者である。新鮮で新しいことを言う能力、新しい思想を考えることは、私たちがフェルトセンスへの接近に熟達することに由来する。この本は3章からなり、第1章では、フェルトセンスと作文学習への結びつきを説明する。第2章はガイドラインの体験、第3章は理論である。

第1章 フェルトセンスって何?

それは、体と心の結合、リズム、創造性、深く直観的に知ること、言葉が生まれる前、集中している、流れる、言葉で明確に表現する前の体の知恵…。
 フェルトセンスは1960年代にジェンドリンが造り出した言葉。体の経験であり、終わりなく描写できる。私たちが創造的なことをしているときにしばしば伴う体験の一側面を指す。人間の一側面に近づき、そこから学ぶ、感じられる体験である。
 ジェンドリンは以下のように表現する。フェルトセンスは、精神的ではなく、身体的な体験である。状況とか、人とか、出来事についての身体的な感じのことである。もし好むなら、「味」として考えよう。あるいは、力あふれるインパクトや、はっきりしない大きな一連の気持ちを感じさせる素晴らしい「音楽の和音」として考えよう。考えとか、言葉とか、分かれた部分の形ではなく、一つの「からだの感じ」としてやってくる。
 それは、普通はそこにない。体の内側に触れることによって、どのように生じるのかを知らねばならない。最初は、はっきりせず、あいまいである。正しいステップを踏むことによって、それに焦点があたり、変化もする。それは意味のある体の感じである。
 彼がフェルトセンスを描写するとき、comeとか、formという言葉を使っていることに注意しよう。私たちの内側で見つけられるのを待っているわけではない。眠気や気持ちがわいたり、涙が出てきたりするように、ほかの身体的プロセスが生じてくるのと同様に生まれてくる。
 あなたが、何かを書こうとして特別な言葉を求めているが、まだ現れていない。心地良くない。近い言葉を書き留めるが、それが正しくないとわかっている。読み返すが、満足できない。これは楽しい体験ではない。あるいは、論文を書いていて、少しの文を書き留め、読み返し、調子が出てくる。言葉が速やかに出てくる。体がぞくぞくするかもしれない。この二つの経験は、ともにフェルトセンスを描いている。それぞれに体との結びつきが言葉に関係している。最初の経験でも、言葉がぴったりこないとわかっていることに注目しなさい。ここで立ち止まり、待つ方法を知っていれば、正しい言葉が生じうる。
 サンドラは大学生が書くことに苦悶している様子を見たあとで、フェルトセンスに興味を持った。研究グループとして、学生たちが書くときに何が起きるか、何が前進を助け、何が邪魔するのかという問いを持った。学生は作文の最中に休憩をとって、30秒とか1分間、静かに座っている。それから、はちきれるように作文をはじめ、しばしば、新しいアイデアの創造に導かれ、それは重要なものだった。沈黙の最中に何かが起こっていた。ジェンドリンの考えが役に立った。この静かな時間に彼らは自分のフェルトセンスに注意を向けて、聞き入っていると思った。サンドラは「作文理解」(1980)という論文にこの現象について書いた。ジェンドリンのフォーカシングの質問が、書き手の問題解決に役に立つと思い、作文の教室で使う実験を始めた。それが体と心の脈打つ関係をつくるのに役立つという発見によって、作文のガイドラインを創案することができた。
 ガイドラインは、言葉の前にあるもの(フェルトセンス)でスタートする。それはまだ、正確に言われていないにもかかわらず、体では感じられているものである。私たちはフェルトセンスに注意を向けることによって、感じていることと知っていること、暗在的に感じていることと明らかに述べていることとの間に生き生きとした関係を築く。

第2章 作文のためのガイドライン

 付属のCDに盛り込まれたガイドラインの教示をコピーし、時間配分や教師用の指導要領を示したほか、詳しく説明している。三つのバージョンがあり、➀40分授業②60分授業③個人使用に対応している。
 ➀~③とも全体構造は同じ。まず、楽になる方法を見つける。手を振ったり、体を伸ばしたりする。呼吸をしながら体の各部に注意を向ける。何を書きたいかはっきりしないときは、息を吸ってリラックスしてから、題材のリストを書き留めていく。見落としているものはないか、もう一度自分に尋ねる。リストにざっと目を通して、どの一つが今、自分の注意を引くだろうかと自分に聴いてみる。新しいページに作業しようと選んだ話題を書く。深呼吸して、それについての連想やすでに知っていることをメモする。ここで中断して、すべてをわきに置く。1分間、書くのをやめて目を閉じ、その話題全体を思い浮かべてみる。この話題全体を体ではどう感じるかみてみる。「この話題はなぜ重要なのだろう」「何が私をひきつけるのだろう」「核心は何だろう」と質問する。言葉やイメージが立ち上がってきたら、どんなことでも書き留める。書き続ける。正しい軌道にいるかどうか確かめながら。「この話題が私にとって難点があるとしたら何だろう」。どんなことがやってきても書き留める。「何か欠けていない?」「これはどこに導いてくれるかな」再び書いていく。「これで完璧に感じるかな」。完璧なら、どのように知っているか、それを見つけた体の場所について書く。言おうとしたことにどんな形式がもっとも効果的かを聞いてみる。エッセイ?物語?詩?論説?手紙?「最初の1行が聞こえる?」。アイデアが新鮮なうちに作品の下絵を書き始める。あるいは鍵となる語句と可能な方向をメモする。最後に体験のプロセスの振り返りをする。

第3章 体現された知

 ジェンドリンがフェルトセンスについて言及した哲学的論文で使っているシンボルは「…」のようなものである。それは、まだ言われていないすべてのことの中にあるスペースを指す。フェルトセンスの中に暗に示された含意があるという概念が鍵である。私たちが立ち止まり、辛抱強く待つならば、私たちが…に触れ、それをオープンにするなら、その新しい考えや話、書く新鮮な方法は生まれてくる。
 新たな感覚を創造するこのプロセスは身体的である。言い換えると、知ることは体現される。体は孤立して存在しない。私たちはさまざまな状況に巻き込まれ、状況も人も言葉によって撃ち抜かれる。体、言葉、状況の相互関係の中から、体現された知の理論は導かれる。私たちが現象として受け止めるのは、心や目によってだけでなく、生きている、感覚のある体によってでもある。ジェンドリンは、体、言語、状況の三つがすべて、人間が意味を創造するため共に作用しあうと主張する。
 ポストモダンの理論は言語を人間のすべての中心とする。いくつかの袋小路にぶつかる。第一にすべてのことが言葉の中に存在すると受け入れると、言葉の外に立つことができない。私たちは言語、歴史、文化によって構成されているという。ジェンドリンの哲学は言語と体の結びつきを示すことにより、何も新しいことは現れないという考えに異議を唱えている。私たちが…にかかわる度にエッジに生き、立ち止まる度にまだ言われていないことにかかわりあう。このエッジで新しい言葉、洞察は生まれる。第二に脱構築主義者は、どんな言葉も別の言葉で論破できることを示してきた。これは、二つの袋小路へと導く。一つは相対主義で、もし言葉による表現が反対の立場の表現によって常に消されるなら真実はないと主張する。もう一つはニヒリズムで、すべてのことが打ち消されるので、大事なものは何もないと主張する。体現された知の理論は、これらに反論する。私たちが体験の中で…に近づき、…から語るとき、一種の体の正しさを認識する。だから、すべての人が同意する究極の真実はないかもしれないが、私たちの体験することには真実はある。
体現された知の理論は、創造性が生得的に人間のものであり、人間の権利であると言っている。それは話したり、考えたりするすべての人にとって新しく、新鮮な何かを言う行為となる。それは個人に自分の内側から話す力を与え、その人が生きている生活と文化の両方で、次に来ることを形づくる核心において、価値や役割を持つ。フェルトセンスは人間が意味をつくる計画の中心にとどまることを確かなものにする。

 ーーーーーーーーーー(以下、上村のメモ)ーーーーーーーーーーーーーーーー
 ♢伊藤義美「フォーカシングの空間づくりに関する研究」(2000年)では、サンドラの研究を以下に位置づけている。
・フォーカシングの臨床以外の領域での適用(自己成長への適用)➀スピリチュアリティ②セルフヘルプ③創造性・問題解決
③の中に、創作のためのガイドライン(Sondra,1990)が位置づけられる。
 日本では、詩の解釈や、受刑者に矯正教育として書かせるロールレタリングへのフォーカシングの適用の研究はあるが、作文全般を対象にした同様の研究は見られない。