村上春樹の「街とその不確かな壁」
村上春樹の最新刊『街とその不確かな壁』を読み、随所にフォーカシングを思わせる箇所を見つけました。
この小説は主人公と少年、それぞれの影との対話が軸になっています。主人公は、「意識の一番底にある暗い小部屋」で少年と会います。影は、「分身」とも表現され、どちらが本体でどちらが分身かも、はっきりしなくなります。互いに影響しあい、変わっていくのです。
「自分がこのところ抱いている違和感」、「私の内側にいる活発な兎」という表現の「違和感」や「活発な兎」は、フォーカシングで言うフェルトセンスのことでしょう。主人公に対して少年は「あなたの心は新しい動きを求め、必要としているのです。でも、あなたの意識はまだそのことをじゅうぶんに把握していません」と言います。
「自分の心の動きに素直に従っていけばいいのです。その動きを見失いさえしなければ、いろんなことがきっとうまくいきます」。これは、フェルトセンスを大事にして生きていけばいいと、私には聞こえます。結末部分で少年が言う「あなたの分身を信じることが、そのままあなた自身を信じることになります」というのは、フェルトセンスの確かさを心の底から信じるという意味でしょう。
物語の途中の、落下していく自分を「誰かが地面で受け止めてくれるのを信じる。留保なく、まったく無条件で」というあたりでは、仏教の阿弥陀仏への帰依も浮かんできました。しかし、作者は宗教的な神や仏ではなく、私たちのフェルトセンスへの信頼をこの長編を通じて訴えたかったのだ、と思いました。
主人公の想像の産物である、壁の中の街では時計に針がなく、「時間」がないのです。時間とは何か。いろんなことを考えさせられました。ら
村上春樹作品については池見陽さん(2013)ら研究者も取り上げています。池見さんは小説『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社)に出てくる「不透明な空気の固まりのようなものを感じる」という文章をフォーカシング的に解釈しました。小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)にも、「胸のどこかにつかえていた空気の重いかたまりのようなもの」が書かれており、この胸にかすかに残っている異物感がフェルトセンスであり、主人公が試みているのはフォーカシングだと説きました。