出征した弟を送った姉 日記から追体験

 戦争体験を次世代につないでいくには、戦時中の人たちの体験を今の価値観で批判するのではなく、残された日記などから「追体験」することが大事だろう。私は母・由美子の黄ばんだ日記に、弟K(当時おそらく15歳)が海軍少年飛行兵として予科練に出征した日のようすが書かれているのを見つけた。

 私の叔父Kは、1942年4月26日朝4時すぎに起きて一人で神社参拝と墓参りをした。午後2時すぎにたくさんの人に送られて出発。岩見沢駅で見送った由美子は「どうしてか、涙が出て姉に注意されるが、なかなか止まらない。百人ぐらいの入団兵で一杯の汽車に、弟もニコニコとした笑顔で…。他の人々は20(歳)ぐらいの大きな人ばかりなので心配でたまらない」と日記に書いた。弟はとりわけ体が小さかった。

 両親は札幌まで送り、由美子は留守番に残った。「帰りはともすれば涙が出そうになるので我慢しきれず、家の近くになると走り出してしまう」

 両親は、すっかりがっかりして夕飯も食べずに帰宅した。「母は札幌の駅頭で本当に立派に送っていただいて無我夢中であったが、何故こんな汽車に乗せなくてはいけないのだろうと思われたとおっしゃる。私はそれを聞いて本当にそうだ、私もその気持ちで一杯、理屈や他人から見たらばかに見えるかもしれない。こんな気持ち味わった人より(しか)わからない」とつづった。

 この日記には教師と思われる人の赤ペン書きがある。出征の箇所には「そんな立派なお姉さんをもたれた弟さんは本当に御幸福です」などと、由美子の本心とかけ離れた添え書きをしている。

 弟は両親に黙って予科練に志願した。由美子は出征前日の日記に、両親が案じる気持ちを「さえぎってきた」と、弟に謝る気持ちを書いた。これには先生が「おめでとうご両親様」と、出征兵士の家族に送る決まり文句を添えている。

 また、女学校の教師が応召し、送別式が開かれた日。「これが一生のお別れかと思うと、涙が出て寒気だつような気持ちになる」と由美子は書いた。これに対し、先生は「心から武運長久を祈りましょう」とコメントしている。当時の教師としては、戦争に勝つために定められた言葉だったのだろう。